文字
背景
行間
日誌
記念誌や資料から考える
75年前の8月15日の正午もこんな晴だった
と聞きます。風がなくてたれていますが、平和
の青空の下です。
砂川村の農家でも、青年が兵士となって子ども
たちは、中神駅まで送っていったのだそうです。
先生方の中にも、昨日まで授業をしていたのに、
今日は出征兵士となって行かれた方もいらした
そうです。(たぶん子どもたちには、前もって
知らせなかったのでしょう。)記念誌には戦場
へ行かれた先生が書いたお別れの詩が載ってい
ます。「さらば武蔵野よ いとしの児よ」と書
いて昭和18年の10月に征かれました。
日々の生活においても、記念誌などのお話を
読むと、大変なご苦労だったことが、分かり
ます。終戦の昭和20年になると、砂川にも
空襲の被害が広がりました。特に8月2日の
明け方には、西砂の中里地区や四番地区の、
合計26軒が焼けたそうです。この時分校も
焼けてしまいました。あと少しで戦争が終わ
るところでした。しばらく、集まって自分た
ちで学習をしたそうです。
何回か載せましたが、昭和二十年の
学校日誌。西砂川國民學校と校名が
変わっています。本物です。
やはり、8月15日は、30度の晴れでした。お昼
からのラジオ(玉音放送)で戦争が終わったことを
淡々と書いてあります。もちろん不安ではあったで
しょうけれど・・・。
話はさかのぼります。これは昭和12年度
です。1月1日にみんな登校して、式を行
ったのです。分校の1年生から4年生も先
生が引率して式に参加。帰りにはおまんじ
ゅうをもらったそうです。
話は前後しますが、これはなんと大正12年の
学校日誌。これも本物。和綴じで丁寧に保存し
ていました。「西砂川小學校」です。
9月1日の関東大震災で『東京・横浜・横須賀は
全滅』と書いてあり、情報の混乱がうかがえます。
東京と神奈川に「戒厳令」が出るかもと書いてあ
ります。1日は強風で火事の被害も大きかったの
でしょう。ところで、なんでこんなに神奈川のこ
とも気にするのか考えました。三多摩は明治4年
から、明治26年までは、神奈川県だったのでし
たね。だから気になりますね。気温は摂氏でいう
と28度。少し涼しい9月でした。
9月3日の3校時、「前庭」に児童を集合
させ、校長先生から大事な訓話がありました。
①日用品の節約 ②衛生に注意 ③沈着冷静
に判断し※行動せよ。(※達筆すぎて読めま
せん。たぶん行動ではないかと)
危機の種類も違うし、一緒にはできないかも
しれませんが、今年の感染病に対する、校長
先生の始業式・終業式などのお話に、共通す
るものがあり、驚きました。
「判断して行動せよ」です!
もうちょっとおつきあいください。
これも大正時代の頃の夜学部の台帳です。
卒業した若者が、農閑期の冬に学校で学んだのです。
小安校長先生をはじめ、この年は7人の先生方が、
ご指導をされていました。
大正4年度はやはり農閑期の12月11日から
翌2月28日まで。夜の7時から9時まで(!)
月~土曜まで!修身・国語(読解でしょうか)・
作文・筆算・珠算。その後、裁縫なども入り、
あの写真になるのでしょう。TVもラジオもない
大正時代。地域の青年団の熱意と、それに応える
指導者の熱意を感じます。しかし昔の記録は、筆
で書いてあり、達筆です。なんとか丁寧に保存し
て、未来に語り継がれるといいですね。
出典:創立百周年記念誌「あしっこ」
学校日誌(大正12・昭和12・20年度)
第九小学校校歌
リンク
立川市へのリンク(外部)
訪問者数
3
2
8
0
6
7
7