日誌

学校のできごと

猛暑再び


学校内や学校の付近には、ひまわりがたく
さん咲いています。これが一番豪華かな。
2m近くあります。青い空に映えますが、
暑さ復活。みなさん気をつけてください。

おなじくさるすべりも、満開。豪華な
咲きっぷりです。通学路にて。今日も
都内は猛暑日で、午前中に熱中症アラ
ート(警告)が出ました。猛暑日は、
最多記録になったそうですね。

暑くて元気なのは芝生もそうですね。近くで
見るといろんな草が生えていますが・・・。
運動会の練習や、レクなどに活躍しそうです。

今年は特に元気がよく、芝生を囲う柵を
はみ出しています!業者さんや用務主事
さんのおかげです。ただ、「しばふ!」
と叫んでいるだけの副校長はお門違いで
すが・・・。

今日は長崎の原爆の日でした。当時の学校日誌を
開くと、まず8月6日以降に広島のことが全く記載
されていません。この記録者の大串さんは、結構
細かいことも書いている方なので、まだ情報が伝
わってなかった可能性があります。6日には、校
長先生が小金井や府中の國民学校へ、事務の方が
西府國民学校へ出張されていることからも、感じ
られます。※

8月9日以降は、もっと記述が少ないです。
びっくりするのは、この時期になっても、
空襲警報が、発令・解除されていること
です。あと、気温が5度ほど低いこと。
そして、15日の日を九小も迎えます。※
※西砂川國民学校日誌より。

次回は「ついに見付けた岩石園の巻」を
配信予定です。

保健教育研究発表会


3年くらい前に、パソコン室を算数教室
等の多目的室にする作業をしました。
校長先生が昔のアルバムを発見して、
紹介してくださいました。
その時に、体育の授業の発表をしている
写真があり、いつの写真か気になってい
ました。

これは、学校の沿革誌です。ついにそれ
らしき記録を見付けました。
保健教育研究発表会 昭和37年9月11日(火) 
ちょうど60年前ですが・・・・。

おおぴったり!今の五日市街道の
門柱で、お客様を迎えています。
おや、今と違って学校道が少しだ
けカーブしていますね。

昇降口で、お客様を待ちます。古い木造校舎
ですが、掃除をしてきれいです。雰囲気があ
りますね。PTAの役員さん委員さんが、こ
のように、発表会を支えてくださったのです。

1時間目は、教室で授業でした。
2年1組 道 徳「運動会」 
4年2組 学級会「遊びのときのけがの予防」
4年3組 理 科「食べ物と栄養素」
等々、保健教育に関する授業を公開していました。
2時間目と3時間目に体育を行わない学級が
1時間目に教室で保健教育を公開したのです。

2時間目は、4学級が体育。
1年1組 水遊び  3年1組 水泳
1年3組 置きかえリレー他
3年3組 腕立て飛び上がりおり
プールは昭和35年に完成。小プールがある
のは珍しく、他校の先生が関心を寄せていま
した。分校の子どもたちは、バスでプールに
通っていたそうです。大変だったでしょうが、
子どもたちは大喜び。この授業公開も、2つ
のプールで同時に行われたようです。

3時間目も体育
2年2組 水遊び 4年1組 水泳
5年1組 台上前回り 
6年1組 リズム運動(表現)
これは、6年1組の授業です。暑いとは言え
ランニングの体操着もあったのですね。この
写真から、校庭をコの字型に校舎が囲ってい
たことが分かります。

午後は体育館がまだないので、大きな教室
(講堂?)で行いました。140名もの参
観者でぎっしりです。
「保健教育のねらいは、その指導内容の習
慣化である」ということが強調された発表。
令和の今でも、大事なことですね!
最後に文部省(当時)のユネスコ課長様から
「国際理解と青少年の問題」という講演をし
ていただきました。

研究発表や、講演を行った場所は、この明るい
校舎ではないかと思われますが、どうでしょう
か。約60年前の発表会でした。

校庭は徐々に広がったの巻

 
図書室のおすすめ本が、「8月の本」に
変わりました。次の開館日は8月22日
(月)です。9:00~12:00。
来てください。(貸し出しと返却)

昭和40年くらいまで校庭の真ん中にあった
大きな木です。よき遊び場にもなったそうで
す。運動会も木を囲むように演技をしたので
すね。桜の木です。

さて、明治33年(1900)に流泉寺から
今の場所にうつり、西砂川尋常小学校に、
名前が変わりました。260人を4教室で
教えていたのだから、大変だったと思います。
※1学校沿革誌第一巻より以下同じ

明治40年児童が増えた(350人)ので
教室を増築します。授業も午前と午後の、
二部制でした。南には井戸があり、これは
たぶんなのですが、大きな木はその隣にあ
ったのではないでしょうか。やがて、校庭
を広くした結果、大きな木が校庭の真ん中
になったとのことです。※1

昭和40年(1965)になり児童数が
ふえて、校舎が足りずなんと午前2回・
午後1回の3部制授業になりました。
さらに校庭がまたひろがりようやく今の
大きさになりました。※1

飛行機の音が問題になり防音の鉄筋校舎
の第一期工事が始まりました。ここにあっ
た木造校舎を移動(牽引)するために、
大きな桜の木がどうしても邪魔でついに
切り倒されてしまいました。※1

これが第一期工事。今の相談室が昇降口で
この渡り廊下が、牽引した木造校舎につな
がっていたのです。防音の鉄筋で、家庭科
室・図書室・音楽室・普通教室が6教室。
当時では、画期的な新築だったと思います。

この後も児童数は増えて、1000人を超えて、
分校は西砂小学校となり、松中小・大山小・柏
小ができて少し減り、またもう一回1000人
を超えて上砂川小学校ができて、ようやく児童
数が落ち着きました。今も少しずつですが人数
はふえて547人。市内19校中4番目に多い
学校です。(5月1日現在)。
※100周年・140周年記念誌「あしっこ」

次回は、「ついに分かった体育の発表会の巻」
の予定です。

あの年の8月


各教室の生きもの、植物は、日直の
先生や管理人さんが見守っています。
くわのみ教室の植物も、元気です。
(業務日誌みたいですね。)

初めて知る人も、待ってました!の人も
います。九小には全国でも珍しい、味噌
樽置き場があるのです。重いドアを開け
てみると・・・

今の6年生が、5年生の12月に仕込んだ
お味噌の樽です。1組から3組とくわのみ
学級の当時の5年生が、3日間かけて仕込
みました。あと一つは作り方を共有するた
めの、教員用の樽です。微かにおみそのに
おいがしますよ。夏を過ぎると一段と香り
が強くなります。今年は150周年記念コ
ッコみそとして発売される予定です。お楽
しみに。美味いこと間違いなし!

今日は広島の原爆の日でした。さて、その
昭和20年8月の学校日誌です。引用が長
くなります。
「8月1日水曜日 晴 27度
 本日より勤労動員を始め本月末までの予定
 20時21分九小警報(略)2日2時47分
 解除されるも、この時当中里分教場(注:分校)
 全部焼夷弾のため焼失せり」
「8月2日木曜日 晴れ 29度
 2日2時47分
 午前2時42分解除されたるも、分教場全焼す。
 中里組多数焼夷弾にて焼失す」
※立川市史(近代部会)資料より。原文はカタカナ
 旧漢字。写真は現存する本物の当日の日誌。

あと終戦まで2週間もなかったのに、
分校(今の西砂小の前身)がやけ、
中里地区は23軒、4番地区は3軒
全焼してしまいました。それでも、
8月15日・そして2学期の始まり
を迎えます。特に分教場の子どもた
ちは、農家に分散して集まり、勉強
を続けたそうです。

先生方も、昨日まで教室で授業されて
今日は出征兵士として、戦場に向かう
先生もいました。もちろん本人は、知
っていて、子どもたちには内緒だった
のでしょう。心中いかばかりか・・・
です。写真は、出征する先生の写真。
ある先生の、お別れの詩です。
上砂の方も、次々と出征し中神駅まで
子どもたちも見送ったのです。
※創立百周年記念誌「あしっこ」より
 明日は、ついに分かった校庭の木の
 秘密の巻です。(たぶん)

少し涼しい


キラリのポスター。8月の海です。
遠く水平線に入道雲ですね。

中庭で何を干しているのかと
よく見たら・・・

用務主事さんが洗ってくれた、エアコン
などのフィルターでした。こんなにある
けれど、一部で、まだまだたくさん掃除
してくれています。

今日は、校庭で遊んでいる学童の
こどもたち。少しだけ涼しくて、
過ごしやすかったようです。連日
の大雨で、窓ガラスが汚れました。

今日は、屋上にある受水槽の点検が
ありました。業者の方は、この柵の
ない屋上の屋根に上がって、手早く
作業をされていました。見ている方
がドキドキでした。