日誌

学校のできごと

新しい時代へ


40度越えもあった今日の日本。夕方には夕立が。
稲妻もぴかり。カミナリがの光が多いと、お米は
豊作だという言い伝えがあり、「稲の妻」と書き
いなずまと読むのだそうですね。立川は大丈夫で
したか。

夏休みの自由研究で「夕立で頭を洗うことが
できるか」と言う鉄腕DASHなみのテーマで
研究をしました。実際洗えましたが、当時の
担任の先生にあきれられました。親には怒ら
れました。いい子はまねをしてはいけません。

戦争が終わり、落ち着いて勉強ができるように
なりました。でもこの写真を見ると、やせてい
る子どもが多いですね。農村地帯の砂川でも、
強制配当の食料供出があったため、食べ物には
苦労されたそうです。校舎の窓ガラスも無いと
ころがありますね。中央には、二宮金次郎さん
の銅像が!校舎改築前は、校庭にあったのです
ね。大変な時なのに、子どもたちはいい顔をし
ていますね!これも貴重な一枚です。

占領時代、掃除をしていると、軍靴のまま視察に
来た進駐軍の兵士に出会い、びっくりしたそうで
す。このあたりは基地があったから、よく視察に
来たみたいです。

この写真も2度目です。昭和30年あたりになると
夏休みに各地区で、「緑陰子ども会」と言う勉強会
をしていたそうです。先生も各地区をまわって指導
しました。当時は学区域がもっと広かったから、大
変だったそうです。上級生も下級生を教えてたそう
です。

班長さんの農家の庭先や、裏山の木陰などに、
むしろなどを置き、張り板やリンゴ箱を並べ
て夏休みの宿題をやったそうです。縦割りの
伝統はここから続いているのですね。緑陰子
ども会は昭和45年くらいまで続きました。
(出典:創立百周年記念誌「あしっこ」)

月・やけどなどに注意・鳥の指


今朝の明け方、月と金星がならんでいまし
た。カメラと腕のせいで月が丸く見えます
が、細ーい月でした。

朝焼けで、雲がムラサキになり、きれいでし
たね。夏休みならではです。

熱中症と感染症の両方を予防するために、
屋外では2m以上離れた時は外してもよ
い。マスクを付けるときにはゴクゴク水
を飲みましょう。判断力と工夫で乗り切
りましょう。

先日の猛暑の日、新家橋の手すりが熱くて、び
っくりしました。自転車のサドルなど、熱いの
で注意しましょうとのニュースです。今日も朝
から熱中症の警報が流れました。気をつけまし
ょう。

これは先日の写真です。くわのみ学級のしそや
花の花壇がカラカラでした。じりじりです。く
わのみのみんな、しそがおい「しそ」うでしたよ。

明日は、開館日ですが、しっかり水分をとって
気をつけてきてください。大人の玄関から入っ
てきてくださいね。

大門軍団ならぬ、クロコ軍団。ポーズがなぜか
決まってますね。

ところで、この足の指、変形か病気かと
思っていました。これは蹴爪といって、
(爪ではないが)後ろ指なのだそうです。
つまり普通のニワトリはこのように前3
本、後ろ1本の計4本なのだそうです。

ところが、クロコは前3本後ろ2本。闘鶏用の
軍鶏や、烏骨鶏など一部のニワトリは5本なの
だそうです。やはり五本指のヤツは、闘鶏の血
が騒ぐ乱暴者ですね。それに後ろ指がないと、
寝床の枝に捕まれないですよね。ネットで、
「ニワトリの足」で検索したら、おいしいお店が
いっぱい出ました。そうか、軍鶏の足は特別おい
しいのか・・・・!ヒッヒッヒ・・・。

記念誌や資料から考える


75年前の8月15日の正午もこんな晴だった
と聞きます。風がなくてたれていますが、平和
の青空の下です。

砂川村の農家でも、青年が兵士となって子ども
たちは、中神駅まで送っていったのだそうです。
先生方の中にも、昨日まで授業をしていたのに、
今日は出征兵士となって行かれた方もいらした
そうです。(たぶん子どもたちには、前もって
知らせなかったのでしょう。)記念誌には戦場
へ行かれた先生が書いたお別れの詩が載ってい
ます。「さらば武蔵野よ いとしの児よ」と書
いて昭和18年の10月に征かれました。

日々の生活においても、記念誌などのお話を
読むと、大変なご苦労だったことが、分かり
ます。終戦の昭和20年になると、砂川にも
空襲の被害が広がりました。特に8月2日の
明け方には、西砂の中里地区や四番地区の、
合計26軒が焼けたそうです。この時分校も
焼けてしまいました。あと少しで戦争が終わ
るところでした。しばらく、集まって自分た
ちで学習をしたそうです。

何回か載せましたが、昭和二十年の
学校日誌。西砂川國民學校と校名が
変わっています。本物です。

やはり、8月15日は、30度の晴れでした。お昼
からのラジオ(玉音放送)で戦争が終わったことを
淡々と書いてあります。もちろん不安ではあったで
しょうけれど・・・。

話はさかのぼります。これは昭和12年度
です。1月1日にみんな登校して、式を行
ったのです。分校の1年生から4年生も先
生が引率して式に参加。帰りにはおまんじ
ゅうをもらったそうです。

話は前後しますが、これはなんと大正12年の
学校日誌。これも本物。和綴じで丁寧に保存し
ていました。「西砂川小學校」です。

9月1日の関東大震災で『東京・横浜・横須賀は
全滅』と書いてあり、情報の混乱がうかがえます。
東京と神奈川に「戒厳令」が出るかもと書いてあ
ります。1日は強風で火事の被害も大きかったの
でしょう。ところで、なんでこんなに神奈川のこ
とも気にするのか考えました。三多摩は明治4年
から、明治26年までは、神奈川県だったのでし
たね。だから気になりますね。気温は摂氏でいう
と28度。少し涼しい9月でした。

9月3日の3校時、「前庭」に児童を集合
させ、校長先生から大事な訓話がありました。
①日用品の節約 ②衛生に注意 ③沈着冷静
に判断し※行動せよ。(※達筆すぎて読めま
せん。たぶん行動ではないかと)
危機の種類も違うし、一緒にはできないかも
しれませんが、今年の感染病に対する、校長
先生の始業式・終業式などのお話に、共通す
るものがあり、驚きました。
「判断して行動せよ」です!

もうちょっとおつきあいください。
これも大正時代の頃の夜学部の台帳です。

卒業した若者が、農閑期の冬に学校で学んだのです。
小安校長先生をはじめ、この年は7人の先生方が、
ご指導をされていました。

大正4年度はやはり農閑期の12月11日から
翌2月28日まで。夜の7時から9時まで(!)
月~土曜まで!修身・国語(読解でしょうか)・
作文・筆算・珠算。その後、裁縫なども入り、
あの写真になるのでしょう。TVもラジオもない
大正時代。地域の青年団の熱意と、それに応える
指導者の熱意を感じます。しかし昔の記録は、筆
で書いてあり、達筆です。なんとか丁寧に保存し
て、未来に語り継がれるといいですね。
出典:創立百周年記念誌「あしっこ」
   学校日誌(大正12・昭和12・20年度)

ニワトリ久々の主役!


いやあ暑い。五日市街道沿いに大木が
多いのは防砂林・防風林の役割をして
いたからでしたね。

見事な樹が並ぶ街道ですね。右には今も
消防団の火の見もありますね。

この道路の下には、砂川分水が流れています。
この分水は地域の生活や農業を支えていたと
いうことでした。途中見えるところもあります。

久しぶりです。さすがに今日は日陰にいます。
主事さん方や管理員さん方がえさをあげてく
れていたので元気です。

地域の方に教えていただきました。ニワトリは
水浴びはきらいだけど、砂浴びは大好きなのだ
そうです。知らなかったよ。穴を増やしました。

掘ること30分。終わったら次々と出てきま
したね。

これも、地域の方に教わりました。ニワトリは、
小石や砂を食べるそうです。
①歯がないのでおなかの中でえさをすりつぶす。
②土の中の菌を取り込むことで体が丈夫になる
 らしい。
えさをよーく見ると、小さい小石が入っている
こともあります。君たちのおかげで、いろいろ
学びますねえ。

おお、浴びてる浴びてる。土も食べてる
食べてる。また今度穴を深くしてあげましょう。

各教室この時期に片付けをしています。
図工準備室です。今入れ替え中です。
広くなってますね。校舎の様子もまた
来週になったら見回ります。

以前載せた写真です。緑のおばさん(交通整理の
主事さん)の後ろが五日市街道に今もある石の門。
「砂川町立西砂川小学校」ですので昭和27年に
体育の研究発表をしたのです。ここに文具屋さん
が、昔はあったと思います。

その頃の運動会。本当に校庭の真ん中に
大きな木がありました。子どもたちの体
操着や女性の先生の姿も含めて、これま
た貴重な写真です。

この頃の航空写真。南門の方から撮った航空
写真。これも一回載せましたがもう一度。
「西」の人文字の左下あたりに大きな木があ
るように思いますが・・・。まわりは畑に囲
まれていますね。プールや体育館はまだでき
ていません。九小の昔調べも、いよいよ戦争
の時代に続きます。

今も昔も上級生のおかげ


昭和の初期には集団登校がはじまってました。
最上級生の高等科2年生が、学校長の任命で
児童長となって、ならばせて登校していました。
今も昔も最上級生のいうことを下級生は聞いて
行動しています。上級生の面倒見がいいのも変
わりません。任命状の文字も直筆で達筆ですね。

高等科にすすむと農業実習がありました。できた
作物は立川や昭島の方まで売りに歩き、その売り
上げで、来年の種や肥料代に当てたそうです。
学校で学ぶと、家の農業の手伝いもがんばるよう
になったそうです。

また大正10年の頃を思い出して描いて
くださった絵地図です。これを見ると、
西砂川小学校分校は、今の西砂会館の周囲
にあったのですね。もうこの頃には、玉川
上水と残堀川が交差していますね。「松中
っ原」と書かれている草地に、今の松中小
学校は建てられました。一番町にも神社や
水車など街道沿いや上水沿いが賑やかだっ
たみたいですね。
(出典:創立百周年記念誌「あしっこ」)
【おまけのクイズ】

今年の夏は東京から出ないでのんびりと。
1日だけ実家によりました。どこでしょう。
①キャプテン翼ゆかりの地(南葛は、実在の高校)
②両津勘吉の勤務している公園あり(交番はない)
③「男はつらいよ」車寅次郎の故郷(団子屋は架空)
もう分かりましたね。①・②・③の銅像がちゃんと
たてられてます。よく寅さんの映画をお祭りなどで
上映してましたね。影響を受けたことは確実です。

リベンジ


また今日もかんかん照りでしたね。
射すような暑さとはこのことです。
また繰り替えしますが、もうしばらく
どうぞ、暑さには気をつけてください。

朝の6時でもうじりじり。アブラゼミが
壁に張り付いて鳴き出しました。

昨日のリベンジで、またもや流れ星を見に。
最近の外灯は明るいLEDですよね。治安
や安全にはすごくいいのですが、星を見る
ときはちょっと見づらいです。

近くの野原なのですが、いい感じでしょ。
待つこと20分。ついに1つだけ流れ星が
見えました。消えないうちに願い事。
「みんなの健康!」ここは、私利私欲には
走らずに、みなさん全員の健康を!願いが
かなうといいです。

結局40分いて一つだけでした。見間違いでは
無いと思います。おまけで、南の空です。調
べたら、右が木星で、左が土星どすえ。
明るいので見つけやすかったです。こんなに近
づくのは、20年に1回だそうです。この後、
8月16日の明け、金星と月がこれくらい接近
するそうです。8月29日(土)の夕方から
なんと、土星・木星・月が角度でいうと7度以
内に集まるとか。星は浮気者ですね。火星もこ
の関係に参戦しそう。後は天気に期待しましょう!
未明から明け方にかけて 月が木星・土星に接近(ウェザーニュース ...

流れ星に願いを


今日もうすぐ、ペルセウス座流星群が
ピークなのです。1時間に30個!
2分に一つ。でも天気がなあ。

それは、夕方ものすごい雷雨。
その雲がいつまでも残っていました。
しかも気温湿度共に危険でしたね。
明日も気をつけていきましょう!

昭和の初期は、運動会が春と秋2回ありました。
春は地区ごとの対抗運動会。分校の地域も強かっ
たそうです。開会式の体操風景だと思いますが、
今と変わらぬくらいの人数。木造校舎もいい感じ
ですね。スカートをはいていらっしゃる先生も、
白い長ズボンの先生も、副校長が小さい頃にもい
らっしゃったなあと、この写真を見て思い出しま
した。斜めに50M走路を作っていたのですね。

また大正10年の絵地図から。文具屋さんが
五日市街道の入り口付近にあったのですね。
古池にはよく子どもたちが遊びに行ったそう
です。学校のそばに分水も流れていたのです
ね。

もちろん、西武線はまだないので、
阿豆佐味天神の近くまで、馬車が
通っていたのですね。立川駅まで
1時間と書いてあります。まいま
いず井戸や四番の火の見など、五
日市街道が地域の重要な道である
ことが分かります。
(出典:創立百周年記念誌「あしっこ」)

大正・昭和初期の第九小


昭和になりました。児童数が456名。校舎は狭い
ので増築を続けました。まだ1階建てですね。校庭
が狭いので広げた結果、例の桜の木とアオギリが、
このとき校庭の真ん中になったとのことです。この
木で、いつも遊んだ卒業生の、思い出の木なのです。
また、100m走もできるようになり、陸上競技の
リレーの選手が各地区の競技会で立派な成績を収め
るようになりました!

校舎がどんどん継ぎ足され、横へ広くなっていま
すね。すきま風が吹き込む、立て付けの悪い木造
校舎だったそうです。冬など悪さして、ろうかに
立たされると寒いのなんの。(なぜ知っている?)
でも掃除は一生懸命。「床が光れば心も光る」
を合い言葉に掃除指導に力を入れていたそうです。
5年生がトイレ掃除当番。冬には手にあかぎれが
できるほど。でもみんなでがんばったとのこと。令
和のみんなも当時の先輩に追いつけ追い越せですね。

この、創立百周年の記念誌には大正10年
頃の絵地図があり、これがまた丁寧で、と
てもおもしろいのです。どれどれ。

そうか、竜泉寺さんに、村役場や郵便局が
あったのでした。地域の中心だったのでし
ょうね。大木を利用した火の見やぐらや、
旅館。水車もあちこちに。おお、昔から
ニワトリも飼われていたのね。(続く)
(出典:創立百周年記念誌「あしっこ」)

ヨー○ドーに行ったら、もう防災グッズコーナーが。
昨日載せましたが、9月1日は関東大震災のため、
防災の日ですね。あの頃震災60周年周期説なんて
当時の担任から言われていて、本当にこわかったで
す。今もその気持ちを忘れてはいけませんね。

パンを買いに行かせていだだいたのです。
(なぜ敬語、誰に敬語?)そのお店にも、
こんな距離を置く工夫。最初はどきっとし
たものですが、今では当然のようにみなさ
ん距離を置き、黙ってならんでいます。負
けないぞ、みんなでがんばりましょう!

子どものいない校舎


第二音楽室で静かに出番を待つ、和太
鼓です。くわのみ学級で、数回授業で
たたきました。2学期は現時点ではク
ラブ活動も始める予定です。和太鼓ク
ラブも復活です!あと少し待っててね!

隣の第一音楽室のマグネット。大きな
声で歌えなかったけれど、こんな用語
を授業で使ってがんばったのですねえ。
「縦と横」って何でしょう。中島みゆ
きの「糸」を思い出しますね。協力っ
て事かな?右下の「あみこみ」はさら
になぞ。新しく使った言葉のようです
ね。2学期に教えてもらいましょう。

くわのみ学級で、7月の気温を調べた組が
あります。うーん、7月は曇りや雨が多く
て涼しかったのにねえ。野菜も値上がりし
て、困っていたくらいでした。今月はこの
表に書けないくらいの高温です。あつい。

みんなが見えるところに図工室の
約束です。安全のことなど態度面
が大事なのですね。多少苦手でも
工夫したり最後まで粘り強く取り
組むことが大事なんですね。少し
図工が苦手でも、がんばれば手が
届く目標ではありませんか!

大正の終わりまで


今年も学校の近くの畑で、オクラのきれいな
花と、形のよい実が見られました。今日は、
36度。明日もです。無理に外出しないで
くださいね。

ねこも水を見つけては、ぺろぺろです。
我々人間はもっとこまめに飲みましょう。

前に載せた写真です。麦まきが終わると、
卒業生が学校へ行き、学んだ夜学が始ま
ります。農繁期が終わり、短い期間です
が、非常に熱心だったそうです。
先生も大変だったでしょうが、熱意は写
真から伝わりますね。

大正時代の分校は、児童数が増加しました。
1年生から4年生まで分校で学び、5年生
から、少し遠い本校へ通いました。運動会
は、本校へ行き遠足も一緒だったそうです。
5年生になると毎日一里(4キロ)も通っ
たなんてすごいです。でもこの写真、子ど
もでないような・・・。何の写真しょうね。

大正12年9月1日11時58分に、関東
大震災がありました。遠くの空が赤い煙で
覆われていたそうです。
この日は始業式で家に着いた頃で、大変だっ
たようです。幸い大けがや倒壊はなかった
ようですが、あることないこと流言(噂・
デマ)がすごかったようです。九小の学校
日誌にも「横浜方面が壊滅」などと書いて
あります。もちろんデマです。
3日に臨時の全校朝礼が行われて、心構え
や流言を信じないようになどと、校長先生
が訓示をされたと記録されています。
(出典 創立百周年記念誌「あしっこ」)